染織文化講座「産地研修 丹後」丸栄織物 at 丹後きものセンター(ダイキュー)~その④~

さてさて、今回の研修は、参加者が大勢なので観光バスで各所を回りましたよ。

染織文化講座に参加される方々は、きもの上級者の方が非常に多いので、とっても勉強になります!

丹後織物工業組合を後にし、次に訪れたのはこちら!呉服・和装小物製品・卸し・ 小売販売をされているダイキューさんです。

丹後きものセンターという大きな看板が目印です。

こちらでは、3つの織元さんのお話を伺います。

こちらが、3社の織元さんを招き講義の場所を提供してくださったダイキューさんです。

そして、こちらがこの日講義を担当して下さった、左から篠春織物さん、小林染工房さん(小林さんは講義はされませんでしたが、染めのアドバイスなどしにいらして下さっていました)、丸栄織物さん、そして丸幸織物さんです。

まずは、丸栄織物さんの井上さんの講義「丹後縮緬の歴史」から。

【丹後縮緬に関する最古の記録】
739年に税金としてあしぎぬ(太糸の粗い絹織物)を1疋6丈納めたという記録とともに、そのあしぎぬが正倉院御物として保存されている。さらに、室町時代以降では、高級絹織物の精好(せいごう)や絹紬が盛んに織られたと言う記録も残っており、丹後が古代から絹との関わりの深い土地柄だったことが伺える。

【縮緬技術の伝来】
明の時代に大陸で織り始められた縮緬が日本に伝えられたのは、天正年間(1573−1585)のことで、明国からの技術者が当時の交易の中心地であった堺に渡来し、縮緬という当時最新の技術を当地の織工に伝えたことに始まる。その後、この技術は西陣に伝えられ、時の権力者の手厚い保護政策と辻が花や友禅染めといった模様染めの技法の発達とともに、天和年間(1681−)には紋縮緬が、元禄年間(1688−)には柳条縮緬という新たな縮緬を織り出し発展する。
享保4年(1719年)峰山城下で織屋を営む絹屋佐平治(後の森田次郎兵衛)が西陣の織屋に上がり、秘伝の縮緬技術を習得。※西陣からすれば佐平治はスパイの様なものだったのかもしれません。
現在では、丹後の峰山の佐平治に加えて加悦谷の佐兵衛、小右衛門、六右衛門の4名を「丹後縮緬の始祖」と言われ、丹後エリアでの縮緬技術の伝搬に努めました。

井上さんの解説に群がる我々。(笑)

生機(きばた:織り上がったばかりの織物)と精錬後の織物を見せて下さいました。
白い方が精錬後の完成品。精錬するとこんなにもサイズが小さくなるんですね。

お気づきかと思いますが、生機の反物は色がついてます。これは、撚りのかかった回数別に間違えないように染めた糸を使っているからなのです。色は、精錬する時に綺麗に落ちます。
左の青い糸は、3400回の撚りがかかっているそうです。撚りがかかっていればかかっている程、手間がかかり値段も高くなります。。。そして右側は、2500−2600回程度の撚りがかかった強撚糸。綸子系に合うものだそうです。ぱっと見は素人にはわからないですが、こうした様々な強撚糸を用途によって使い分けたりするのですね。

さて、ここからこの研修に参加していたお仲間の素敵なきもの姿をご紹介していきたいと思います~。

こちら、愛媛から参加された方。お召しになっているのは、久米島紬のきものに、琉球絣の帯のコーディネート。
写真だと少しわかりにくいですが、茶色地のきものなんですね。それがとってもいい色で、可愛らしく目に留まりました。

後ろ姿も。私は常々、沖縄の織物に憧れているのですが、なんだかまだ自分には似合わない気がしてトライできないでいます。絣の模様も色もこれは可愛いな〜。とってもお似合いでした☆☆☆

 

あこや

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