美しいキモノ・アカデミー「白鷹の絹物語」へ〜その①〜 A lecture of Shirotakaomeshi

先日、雑誌美しいキモノが主催する勉強会「美しいキモノ・アカデミー」で白鷹御召についてのレクチャーがあると言う事で行って来ました!

こちら山形の呉服店「とみひろ」の冨田浩志社長。今回は、とみひろさんがホストとして、白鷹御召で有名な「小松織物工房」の小松紀夫さんと養蚕史研究家の沢辺満智子さんをゲストに迎えたトークショーが、青山にありますとみひろさんにて開催されました。

冨田社長、とってもお話にパッションがあって、山形愛に溢れた素敵な方でした。

イベントは、美しいキモノの富川編集長のご挨拶からスタート。富川さん、江戸小紋姿でご登場でした。

会場は、白鷹御召ファンでいっぱい!皆さま、お勉強熱心で、生産者の方の声を直接聞ける機会を求めているんだな、と感じましたね。

司会進行は、こちらのお若い青山とみひろの店長の冨田社長の三男でいらっしゃる冨田店長。まだまだお若く、こうした方が頑張っていらっしゃると言うのは、頼もしいですね。頑張ってほしいな。

こちら右側で笑顔でいらっしゃるのが、小松織物工房の小松紀夫さんです。

さて、小松さんによる白鷹御召のレクチャーのスタートです。講義メモというより、私の見解や白鷹御召の基本的な情報なども入れて書きます。

小松織物工房の5代目

小松さんは、山形の白鷹町にある小松織物工房の5代目。現在は、息子さんが6代目になるべく跡継ぎとして一緒にお仕事をしていらっしゃるそうです。幕末頃から続く織物工房で、現在、白鷹御召を生産する主な織元2軒のうちの一つです。

その昔、米沢藩の上杉鷹山(うえすぎようざん)が養蚕を奨励した事から、白鷹町というのは非常に養蚕が盛んなエリアだったそうです。

白鷹御召の誕生

白鷹紬は山形県で生産される置賜紬と総称される紬織の一つで、他には、米沢紬、長井紬があります。江戸時代に、琉球から伝わった絣柄を織り出した米沢琉球絣、略して米流(よねりゅう)が作られていたエリアで、小松織物工房も米流の織物屋がルーツだそうです。

米流は、大正10年頃には、月産1万反ともいわれるほど、生産量のピークを迎えます。織機も3000台が動きっ放し、と言った時代。大正末に、小松織物さんと他数名が共同で開発し生産をスタートしたのが絣の御召で、昭和4年に、「白鷹御召」として商標登録し、世の中に販売を始めたそうです。その際、年間200反しか生産しない、と言うルールを決め、大量生産してこなかった事が、現代まで生産し続けられた理由ではないか、と小松さんは語ります。

板締め絣と御召

白鷹御召の大きな特徴の一つが「板締め絣」です。絣の糸染めに板締めを応用して織った絣のことで、実はこの板を作る板大工の不足や、この板自体の管理が非常に大変で、一時板締め絣は生産出来ない、と言うような危機もあったそう。

板締め絣自体は、群馬県の伊勢崎からもたらされ、開発したのは奈良県でかつて生産されていた大和絣の職人が開発、明治30年に山形に伝わったとされ、「北限の絣」と言われています。


※小松紀夫さんと一緒に。

さて、御召は、というと、当時白鷹には撚糸技術はなかったそう。米沢の工業センターにかろうじてあった八丁撚糸の機械でやろうとしたもののうまく行かず、それを改良してハセ式という手法を開発。白鷹御召で使用する強撚糸を開発。更に、板締めの絣を入れ込み壁撚りした糸で作ったのが白鷹御召なのだそうです。

塩沢御召とどう違うのか、と、小松さんもよくたずねられるそうなのですが、糸の太さ、密度、撚糸の方法が全く異なる別物なんですね。

板締めは板の問題、御召は、誰でもそうそう簡単に織れるものではない、というこの2つの状況が、白鷹御召を更に貴重な織物にしている、というのが現在の状況と言えそうですね。高価なわけです!!

 

つづく

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