染織文化講座Ⅲ 染織家 築城則子先生「小倉織と色彩美」〜その①〜 Noriko Tuiki’s Kokuraori lecture

毎日がバッタバタで、怒濤のように過ぎて行くのですが、やることが山盛りなのにやるべきことになかなか手を付けられておらず、ブログも書きたいことが滞っております。。。!がんばります!でも、ちょっとゆっくりしたい。。。かも(笑)

だいぶ時間が経ってしまいましたが、先日、染織文化講座で染織家の築城則子先生の講義がありました。素晴らしかった!!!

ご自分で織ったきものと帯をお召しの築城先生。先生の作品は、工芸展で拝見し、織の技術と色による表現の美しさに、大変憧れていたので、こうしてお話をうかがえる機会はとても貴重で嬉しかったです。

築城先生は、伝統の小倉織を復活させた方として大変有名ですが、生み出される作品は、きもの愛好家にもとても人気があります。

先生がお持ちくださった数点の作品。これはピンクが際立った帯ですが、この色のグラデーション!計算され尽くした美しさです。こうした作品が生まれるまでのお話や、小倉織についての講義を少しですがご紹介したいと思います。

【小倉織とは】
豊前小倉、現在の北九州市で江戸時代から作られてきた小倉織。豊前小倉藩の藩主である小笠原氏の庇護のもと豊前小倉藩の特産品として全国へ知られて行きます。

その特徴は、
①木綿の織物
②たて縞
③地厚で丈夫

元々は、武士の裃や帯として織られたものです。小倉織の制作作業は、藩の婦女子の仕事で、綿を栽培し、糸を紡ぎ、専売制が長く守られてきました。小倉織が大変人気があった理由の一つに③で挙げた地厚で丈夫、というのがあります。経糸を多くし細い糸を使うため丈夫でなめらかな仕上がりになるのです。経糸が多いため、表現としてはたて縞となります。

【小倉織の歴史】
多くの文学作品にも小倉織に関する記述が出てきます。築城先生がお調べになった中でおそらく一番古い記述が、井原西鶴の「好色二代男」(貞享二年/1686年)で、その後、夏目漱石の「我が輩は猫である」の書生の袴として紹介されていたり、司馬遼太郎作品で幕末を舞台にした多くの作品で、小倉織について記述があるそうです。幕末は特に小倉織の袴の生産量が増えた時代で、「小倉袴」は下級武士の日常着として人気がありました。

明治時代には、袴の特徴を引き継ぎ、男子学生の夏の制服として「霜降り」と呼ばれるグレー地の小倉織を製造し、小倉木綿、小倉服の名で全国に広がります。丈夫であることが採用の理由です。


※制服のトンボさんのサイトより拝借

左のグレーが夏服として着用された杢糸使いの霜降り学生服。折襟スタイルで小学生向きデザイン。カスケード調(滝の流れの意味)の素材と色味で清涼感を表現したものだそう。(昭和20年代)右が小倉木綿製の冬服。

大変人気が出て製造が追いつかず、備中小倉、土佐小倉など、各地で小倉織に似たものが製造されて行きます。備中小倉は、現在ジーンズの街として知られていますが発生は小倉織と言われています。

小倉高校の最後の霜降り世代(20期)が着ていた小倉織は、四国で織られていた土佐小倉の流れで、縮みやすく、破れやすいという本来の霜降りが持つ特徴を備えておらず、霜降りも消えていきます。

I went to the lecture by Noriko Tsuiki who is an artist famous for the achievement of revival of Kokura-ori which is the traditional textile in Kokura in Kyushu. Kokura-ori had been produced since edo era under the Ogasawara, master of Buzenkokura-han and about for 300 years mainly used in kamishimo and Hakama of Bushi.

つづく

 

あこや

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