染織文化講座Ⅲ 美術史の立場から見るきもの by 丸山伸彦先生 Kimono in Art history

武蔵大学教授の丸山伸彦先生の講義です。今回は、2週にわたって現代に残されているきものについて、美術史の立場から改めてその意味を問います。一部ですが講義メモです。

~パート1~
●現代に伝わるきもの、どうして現代まで残っているのか。
江戸時代の染織品は、現代において非常に貴重な歴史的史実を知る手がかりとなるもの。しかしながら、当時の状況を考えると、きものは貴重な生活必需品。何度も何度も洗い張りされ再利用され、使い切られるのが当たり前であったはず。では、現存するきもの達には、使い切られずに済んだ理由があったはず。

●現存する理由
ー徳川家康などの時の為政者より賜るきものは、代々その家に家宝として伝わり残りやすい。
ー都から地方へ流れた伝世品=大切に保管されて続けた可能性が高い。
ー亡くなった人の遺物として寺院に奉納された。

●奉納されたきもの
ーはじめは高貴な人々の習慣だった遺物を奉納するという慣わしが、江戸時代になると次第に庶民の間にも広がる。
ー誰のきものかが墨書で書かれた布が縫い付けられているケースが多い。
ーそれならば、大量の遺物としてのきものが現代に残っていてもいいとも考えられるが、意外と少ない。
ーその理由は、寺が奉納されたきものを質に流すケースがあったと文献から読み取れる。(井原西鶴集)
ーつまり、現存するきものというのはやはり非常に珍しく貴重なものなのである。

※国立歴史民俗博物館で開催された「近世きもの万華鏡展」の図録から。右下にあるようなものが所持者の詳細が記載されている墨書。

~パート2~
上記のようなシステムが昔のきものを現代へと残す大きな原因であったが、これを受けた近代の人々はどうしていったのか。

●近代の人々「野村正治郎」のまなざしを見ていく。野村正治郎とはどんな人物か。
野村正治郎は明治の美術商で、膨大な小袖のコレクターとして知られている。丸山先生は、野村コレクションを専門に研究なさっていたそうで、正治郎にまつわる講義は非常に面白かったです。コレクターとしての興味深さはもちろん、京都の美術商を営む家の五男として生まれ、自然と日本の染織品・きものに触れて育ち、明治という時代に米国へ留学している、などの経歴。この時のエピソードを一つ紹介します。

正治郎の母は、京都の南座の近くできものや雑貨などの趣味の店をオープンしていました。ある日、外国のお客様が来店。店先の着物を指さし、いくらかと聞きます。母は両手を開いて10銭とジェスチャーをしたところ、その外国人は10円を置いて、きものを持ち帰ったのです。その時、母は「これは商売になる!」と外国人相手にそうした商売を軌道に乗せていきます。そんな背景もあり、これからは「英語」だ!という母の先見の明のもと、正治郎をアメリカへ留学させます。その際、正治郎へは、生活費として浮世絵を何枚か渡しただけだったと言います。正治郎は、持たされた浮世絵を米国で売り、学費や生活費にしていたわけです。その後、天性の商才と嗅覚で正治郎は30歳前後には米国で美術商として大成します。

●友禅にも造詣が深かった正治郎
帰国後、正治郎は京都 縄手新門前で外国人相手の美術商をスタートします。当時の日本の染織は美術価値が認められておらず、表具にされたり、そのままはぎれが百貨店などで配られていたり、とその扱いは残念なものだったそう。そんな中、幼少期から友禅や小袖に魅了されていた正治郎は、古い小袖を収集し販売、また一方、自らのコレクションとして収集、歴史資料としても貴重な膨大な小袖コレクションを作って行きます。大正9年には、自らのコレクションを資料として公にする「友禅研究」という本を出版します。

※google画像検索

これは、現在京都国立博物館に収蔵されている、もともと正治郎の小袖コレクションにあったもので、現在唯一重要無形文化財になっている「束熨斗紋様振袖」です。このきものには、当時の正治郎を物語るエピソードがあります。
ある日、正治郎の新門前のお店に米国の財閥ロックフェラーのジュニアが来店。どうしてもこの小袖を売って欲しいと正治郎に交渉します。正治郎はこの小袖を最も気に入っており店の目立つ所に飾るほどでした。悩んだ挙句、大変気に入っているものでこれは手放せないと、ロックフェラーへ回答すると、ロックフェラーはこう申し出ます。「この小袖を買うけれど、日本のために日本に残していくから、自分に買わせてほしい」と。そのロックっフェラーの言葉に感激した正治郎は、「ロックフェラーに売りましょう。ただし、お金はいらないので、日本に置いておいてください。」現在は、千總傘下にある「友禅史会」の所蔵品として博物館に収められてりいます。

●野村正治郎のサロン文化~吉川観方・江馬務~
正治郎は、当時の染織に関わるあらゆる知識人、有識者、文化人との交流を密にしながら大正8年に「誰が袖百種」を出版。この出版企画に関わっている人々は当時の染織関係者含めそうそうたるメンバー。題字は富岡鉄斎。監修には日本画家の吉岡観方や歴史学者の江馬務などが参加しています。

※google画像検索
吉川観方、江馬務らは、「風俗研究会」と称する勉強会を行っていました。写実的な表現を行うために、時代考証を徹底的に大切にしていた彼らに、正治郎は自らの江戸時代の小袖コレクションを貸出し、また、金銭的なサポートも行うというパトロナージュの関係をもってサロン的ネットワークを形成していきます。実際には、その後、仲違いがあり彼らはバラバラに活動していくことになりますが、そのことが正治郎を小袖屏風の制作に駆り立てたという見方もあるそうです。
●正治郎が晩年没頭していく小袖屏風制作
皆さんは、小袖屏風というものをご存知でしょうか。
※歴史民族博物館のサイトから拝借
小袖屏風とは、正治郎が、集めた小袖をおそらく鑑賞するために美しい形として選んだ様式で、実際の小袖裂(こそでぎれ)を押絵貼りした二曲一隻の屏風のことを言います。衣桁は厚紙に漆を塗ってそれを屏風に貼っています。実物はまるで絵のように見えるほどぴたーっと屏風と一体になっているそうです。ここに貼装されている小袖は、辻が花、縫箔(ぬいはく)、寛文小袖、慶長小袖、元禄小袖、友禅染など、近世の服飾界を彩った小袖の諸相を網羅し、染織資料として重要な位置を占めています。
そんな大切な小袖を屏風に貼っちゃうの!?と少々驚いた訳なのですが、少し納得した部分がありました。それは、正治郎が収集していた小袖は、常に小袖の形として残っていないものも多くあったらしいのです。幡(ばん)といって、小袖を解き、一枚の大きな敷物のようにして、寺に奉納された小袖などは保存されていた例が少なくなかったため、そうした状態の小袖が正治郎の手元にも多くあった訳です。そうなると、当然限りなく小袖の原型に戻して鑑賞できるようにしたいと思う正治郎の気持ちも理解できます。
貴重な歴史資料の破壊、という側面は否めないものの、正治郎は大量にこの小袖屏風を制作していきます。昭和7年にはこの形式で特許を出願しているほどです。
昭和13年には、小袖屏風100隻をまとめた「時代小袖雛形屏風」という本を出版します。

※google画像検索
●海外に流失していた野村コレクション
小袖や小袖屏風も含めた野村コレクションは、正治郎の死後、彼の孫の代で米国に持ち込まれます。それが、戦後日本へ買い戻され、現在のほとんどが奈良/京都/福岡の公的博物館、美術館に分財されて保管されています。
これまで、野村正治郎という人物についてほとんど知識がなかったので、今回の講義は非常に興味深く学びました。人物的にも魅力的な方だったのではないかと想像します。特に面白いなぁとおもったのは、美術コレクターとして最終的に自分のコレクションに自らが手を入れることで、全く違う美術品を作り上げたことです。どうして、こういったことをしようとおもったのか、もう少し知りたいところだと思いました。彼の膨大な小袖コレクション。なかなか博物館でもまとまって見ることが出来ないそうなので、また展覧会などが企画されるといいなぁ。
I had a kimono in art history class by a professor Maruyama. He presented how the kimono has been inherited to the present age and introduced a huge Kosode collector Shojiro Nomura in Kyoto.
あこや

Leave a Reply