染織文化講座「銘仙の歴史と銘仙きもの」by三橋順子先生〜その①〜
銘仙のきもの。いわゆる、「はいからさん」が着ている矢絣のきもの、あれです。
※google画像検索から拝借
今回の染織文化講座のテーマは「銘仙の歴史と銘仙きもの」。銘仙の産地である秩父生まれの三橋順子先生によるレクチャーでした。ぼんやり気になっていた銘仙という過去のきもののことがよく理解できました。
こちらが三橋先生、三橋先生は性社会・文化史研究がご専門のいわゆる社会学者で普段は早稲田大学など様々な大学で教えていらっしゃいます。
ご趣味がきものということで、特にご出身である秩父に関連して「銘仙」を研究していらっしゃるそうです。チャーミングな先生で、すっかり大ファン☆☆☆
今回は、三橋先生がお持ちの銘仙と、先生のご友人のYukoさんが実際にご自分のコレクションを着て見せて下さいました。
こちらがYukoさん。日本髪を結って、銘仙を色っぽく着ていらっしゃいます。やはり着姿できものを鑑賞するほうが当時のリアルな姿を想像できるので非常に勉強になりました。
それでは、講義メモです。
【銘仙の時代背景】
ー銘仙の着尺の生産は、大正末期から急増し、昭和初期=昭和戦前期(1926−37)に全盛を迎える。
ー大衆絹織物(銘仙・お召)の大流行。日本の和装文化の全盛期と言える。
ー昭和30年代(1955−64)が生産量としてのピークであるが、着尺の生産は既に廃れ布団皮が主であった。
三橋先生の小さい頃、秩父は桑畑に覆われ養蚕が盛んに行われていたそうです。あちこちに、ノコギリ屋根の機屋が並び、機織り機のジャッカジャッカという音が聞こえてくるのが日常の風景だったようです。
【銘仙とは】
(1)北関東の風土から生まれた織物
ー先染(糸の段階で染める)、平織(経糸と緯糸の直交組織)の絹織物
ー古くは「目千(めせん)」「太織(ふとり)」などと表記し、玉繭(2匹の繭が一つの繭を作ったもの。太さがまちまちのため糸が綺麗に引きにくい)などから取った節糸(商品にならないくず糸)を天然染料で染めた堅牢な自家生産品。
ー明治21年(1888)に「伊勢崎太織」から「伊勢崎銘仙」という名前に。
(2)最初の大衆向け絹織物製品
ー明治末期〜大正時代前期(1910年代)に工場生産化
人口染料で経糸に着色、絹紡糸を緯糸に使い、力織機で織り上げる
→大幅な省力化によるコストダウン、工場による大量生産・大量流通
→それまで経済的に絹織物を着られなかった(木綿を着ていた)階層にも普及
(3)銘仙の種類
ー縞銘仙、絣銘仙、模様銘仙(解し織り)
(4)銘仙流行の要素
ー人工染料
ー力織機(工場生産品)
ー着用層(都市中産階層の成長)
ー流行の演出(デパート)
ー新技術(解し織り)
ー新柄(アール・ヌーボー、アール・デコ)
織りの機械化や化学染料の普及により、格段に安く消費者に提供された銘仙は、デパートの積極的な商戦によってお嬢さんの普段着として中産層に広く普及しました。流行の同時代性としてアールデコの影響を強く受けたと言われています。そう、銘仙は、デザインがすごいんです!
こちらは先生がお持ちになったもの。
何とも表現しにくいデザインですが、まるで近代美術館で平面として飾られる絵画やタペストリーの様な、現代の感覚からすると考えられない様なデザイン!
近くで見ると、絣模様がよくわかりますよね。織物と言うこともよくわかります。
黒地に白、赤、黄と奇抜なデザインです!
【都市大衆消費文化の目玉商品】
ー昭和初期(1926−37)にデパートなどが産地と提携した展示会などで流行を積極的に演出
ー流行に応じる為、伊勢崎、秩父、足利、八王子などの産地が熾烈な競争
ー中産階級なら1シーズン1着購入が可能な価格
昭和8年秩父産の「模様銘仙」が5円80銭〜6円50銭→現代の21000から24000円くらい
銘仙は安かったんですね!
Tシャツ感覚で買う、と銘仙のことを表現する方もいるくらい。今年はこれ、来年はこれ、と毎シーズン若い女性が殺到して購入した物なんですね。
つづく
あこや
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