染織文化講座「銘仙の歴史と銘仙きもの」by三橋順子先生~その②~

講義メモの続きです。

【華麗・豊富な色柄、最先端の前衛的デザイン】
(1)「解し織(ほぐしおり)」の導入
「解し織」とは、経糸をざっくりと仮織してから型染め捺染し、
織機に掛け仮糸をほぐしながら、緯糸を入れる。
明治42年(1909年)に伊勢崎で技術開発された。
※捺染とは、、、
繊維製品の染色には,染浴に浸す浸染と,染料を含む捺染のりを印捺して
模様染を行う捺染がある。
まず染料や助剤をのりと練り合わせて捺染のりをつくり,
一般的には捺染機で布地に捺染のりを印捺(プリント)する。
次いで水蒸気で加熱(スチーミング)し染料を繊維によく浸透、染着させ、
セッケン液等で処理(ソーピング)して付着染料などを除去,
水洗したのち乾燥し製品とする。
ー多彩な色柄を細かく織り出すことが可能に

(2)伝統的意匠のリニューアル

(3)ヨーロッパ最新のデザイン(アールヌーボー、アールデコ)の導入
ー秩父でも現;東京芸術大学の卒業生等に基本デザインを依頼

(4)曲線や円形、最新デザインを直交組織の織物で表現する職人技

こちらも先生がお持ちになったもの。

巨大な折り鶴が大胆にレイアウトされています。これ、すごくないですか!?これを実際着て街を闊歩していたなんて、一体どんな人が着ていたんだろう、、、

近くで見ると、経糸が赤や様々な色で構成されグラデーションが生まれていますね。そこに絣で大型の折り鶴が織り出されています。このきものが見る角度によって玉虫色のように見えるのはこの地色が影響しています。また、つやつやと光沢がありますね。これは先染&平織と秩父の銘仙の特徴でもあります。

【銘仙の着用層】
銘仙を着ていたのは、それまで高価な絹織物が着られず木綿を着ていた中間層。彼らがこの着物をまとい銀座をそぞろ歩いていた風景は、おそろしく色彩にあふれた世界だったはずです。

(1)大正〜昭和戦前期
ー中産階級層のお嬢さんの普段着、女中さんの晴れ着
ー職業婦人の仕事着(女教師の銘仙+女袴、牛鍋屋の仲居の赤銘仙、カフェの女給の銘仙+白エプロン

(2)昭和戦後期
ー赤線(黙認売買春地区)の女給さん(実態は娼婦)が愛用
戦前に銘仙を好んで着ていた女性は、どんどん洋装化が進んだのですね。

【急速な衰退】
ー粗悪品の流通によるイメージ低下(緯糸に人絹=レーヨンを使用→聴力、雨に弱い)
ー高度経済成長期における、きもの文化の多層性の崩壊
礼装・社交着としてもきものは残る
街着・家内着・労働着としてのきもの(お召、銘仙、木綿)が衰退
紬は高級化・社交着化(60−70年代)
ー生産技術の断絶→工場生産品ゆえに、伝統工芸金具路美術品にならなかった。
お召と銘仙はよく似ていると言われますが、この2つは同時期に流行し、境目が微妙な商品が多く作られたそうです。お召は、経糸に撚りのかかった強撚糸を使用しますが、銘仙はつるっとした撚りのかかっていない経糸を使います。また、お召は関西が中心で現在では再び見直され私たちもよく袖を通す機会があるきものですよね。

【現代】
現代では、アンティークきものの切り口から、銘仙を好んで着る人が根強くいらっしゃるそうです。ですが、隆盛期から80年以上が経過し、耐年性も限界と言われています。そんな中2010年代には生産がほぼ断絶、現在では秩父の「新啓織物」が復興、新柄の生産に挑戦しているそうです。

こちらも先生がお持ちになったきもの。

巨大なチューリップが描かれていますが、ショッキングピンクの葉っぱがサイケです。
この色味が銘仙の特徴ですが、当時使用していた化学染料の色味そのままの可能性が高いそうです。当時の化学染料は、現在では使用できない毒性の強い物や、環境に悪い物が多く、その意味においても、現在では色の再現が難しいのだそうです。この毒々しい色は、本当に毒々しかったのですね。。。汗

ここで、ふと思ったこと。

谷崎潤一郎の細雪で描かれた時代と銘仙の隆盛期はかぶっていますが、階級的にも関西というエリア的にも、あの姉妹は銘仙ではなく、お召を着ていたはずです。ちなみに、アロハシャツは、日本から持ち込まれた銘仙が元になっているそうです!

自分では着れないけど、銘仙はおもしろいですね〜。昭和戦前期を象徴する衣類としてのたくさんの銘仙を見てみたくなりました!

 

あこや

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